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映画・絵画・コルセット


映画・絵画に見るコルセット展

 

第三会場、映画・絵画に見るコルセット展
美と芸術の中へ...

『マリリン・モンロー 』

 

1926 6月1日、ロサンジェルスの総合病院に生まれる。出生証明書に記された姓名はノーマ・ ジーン・モーテンセン。母はグラディス・ベイカー。父はエドワード・モーテンセンと伝えられて いるが、失踪。実父は母親と恋愛関係にあったスタンリー・ギフォードと言われている。ノーマ・ ジーンは生後12日目に里子に出され、孤児院で幼少期を送る。
1933 セルマ・アヴェニュー・スクールに入学。この年、母親のグラディスが精神病院に入院。
1935 ロサンジェルスの孤児院に送られる。
1938 アンナ・ローワー夫人の元に預けられる。ロサンジェルスのヴァン・ナイス・ハイスクー ルに通学。
1941 9月、新しい里親グレース・マッキーの元に預けられる。
1942 ハイスクールを退学。6月19日、グレースのすすめで、隣人だった航空機整備工のジム
・ドゥアティ(20歳)と結婚。
1944 ドゥアティが海軍基地に転勤し、カタリナ島で生活。ドゥアティの不在中、航空機部品 工場で働く。この時、取材に訪れた陸軍の写真班員デヴィッド・カノーヴァーによって撮影さ れた写真がきっかけとなり、ブルー・ブック・モデル・エージェンシーの専属モデルとなる。
1946 母が退院し、一緒に暮らすが7ヶ月後に再入院。10月2日、ジム・ドゥアティと離婚。 ハリウッドで独り暮らしを始める。スクリーン・テストを受け、20世紀フォックスと週75ドルで1 年契約を結ぶ。芸名マリリン・モンローとなる。
1947 映画『嵐の園』、映画『Dangerous Years』の2本に端役で出演。『嵐の園』の台詞は“ ハロー”の一言だったが、そのシーンもカットされた。その後、20世紀フォックスを解雇され、ピ ンナップ写真のモデルに戻る。カレンダーの撮影のため、ヌードとなる。
1948 コロムビアに移籍。週75ドルで6ヶ月契約。映画『Ladies of The Chorus』に出演後、再 び失職。
1949 マルクス・ブラザースの映画『ラブ・ハッピー』に端役で出演。アン・バクスター主演の 映画『彼女は二挺拳銃』に出演。大物エージェント、ジョニー・ハイドの手により20世紀フォック スと再契約。
1950 ジョン・ヒューストン監督の映画『アスファルト・ジャングル』に出演。ようやく注目を 集める。この作品と映画『イヴの総て』により、スターへの道が開ける。この年、映画監督のエリ ア・カザン、作家のアーサー・ミラーと知り合う。
1951 映画『Hometown Story』、 『As Young as You Feel』、『Love Nest』、『Let's Make it Legal』に出演。
1952 映画『Clash by Night』に出演し好評、一気に人気女優へ。『We're Not Married』、 『ノックは無用』に出演。撮影中、売れない頃に撮ったヌード・カレンダーがマスコミにとりあげ   られ、爆発的な注目を浴びる。『モンキー・ビジネス』でケリー・グラントと共演。この年、野球   選手のジョー・ディマジオと知り合い、親しくなる。
1953 映画『ナイアガラ』がヒット。モンロー・ウォークが有名になる。『紳士は金髪がお好き』   でジェーン・ラッセルとともにトップ女優に。『百万長者と結婚する方法』に出演、条件をめぐって   20世紀フォックスと対立。プレイメイト第1号として「PLAY BOY」創刊号(12月号)の表紙を飾る。
1954 1月14日、サンフランシスコでジョー・ディマジオと結婚。2月、ハネムーンで日本を訪れる   旅行の途中、韓国に駐留している米軍を慰問。映画『帰らざる河』に出演、興行的にも大成功を収め
る。『ショウほど素敵な商売はない』に出演。9月、『七年目の浮気』の撮影でニューヨークへ行き
、アーサー・ミラーと再会。10月、離婚訴訟を起こし、ジョー・ディマジオと別居。人気が高まる   のとは逆にディマジオとの結婚生活は9ヶ月で破局を迎える。
1955 リー・ストラスバーグが主宰する「アクターズ・スタジオ」で演技のレッスンを始める。   1月、写真家ミルトン・グリーンとマリリン・モンロー・プロダクションを設立。11月1日、ジョ   ー・ディマジオと正式離婚。
1956 映画『バス停留所』に出演。演技派女優への転身をはかる。7月1日、コネチカット州でア   ーサー・ミラーと結婚。ローレンス・オリビエ監督・共演『王子と踊り子』の撮影のため、イギリスへ
10月、王室招待試写会でエリザベス女王に拝謁する。
1957 子宮外妊娠で流産。睡眠薬の飲み過ぎで昏睡状態に陥るが、一命をとりとめる。
1958 映画『お熱いのがお好き』出演。再び流産。
1959 映画『恋をしましょう』でイヴ・モンタンと共演。
1960 1月、映画『お熱いのがお好き』でゴールデン・グローブ賞受賞。ジョン・F・ケネディ大統   領就任。選挙中から交際が深まる。11月、映画『荒馬と女』出演。完成後、共演のクラーク・ゲーブ
ル死去。
1961 1月20日、アーサー・ミラーと正式離婚。ひどい抑鬱状態に陥り、アルコールと睡眠薬に溺
れる日々が続く。精神病院に入院。ロバート・ケネディと交際の噂。
1962 ジョ-・ディマジオとの関係が復活。退院後ハリウッドに戻り、フランク・シナトラと親密に   なる。3月、ゴールデン・グローブ賞受賞。映画『女房は生きていた』撮影開始。5月、ジョン・F・   ケネディ大統領の誕生日を祝う催しで「ハッピー・バースデイ」を歌う。6月、映画『女房は生きてい
た』の主役を降ろされる。8月5日、ロス近郊ブレントウッドの自宅で死亡しているところを発見され
る。「睡眠薬の過度の服用による急性中毒死」と発表。葬儀はごく内輪で行われ、香典はすべて恵
まれない子供たちの施設に寄付された。

 

『風と共に去りぬ』

どの衣装が自分の魅力をいちばんよく発揮して、愛するアシュレを魅了することができるだろう か。朝の八時からあれこれと着たり脱いだりしたあげく、いまスカーレットはレースのパンタレッ トにリンネルのコルセットカバー、それに大きく三段の波のある、レースとリンネルのペティコー トという格好で、途方にくれ、いらいらしながら立っていた。

腰のことを考えたので、彼女の心は、ふと現実の問題にかえった。緑のモスリン(註=スカーレッ トが選んだ洋服)は、腰回りが17インチなのに、マミー(註=黒人の侍女)はボンバンジを着てゆ くものと思って、コルセットの腰を18インチにつけていたのだ。だからマミーを呼んで、もっと強 く締めなおさなければならない。‥‥‥お盆をそこへおいてコルセットを締めておくれ」とスカーレ ットは気短に言った。「あとで、すこし食べてみるわ。いま食べるとコルセットがうまく締まらない から」‥‥‥

そう、なにかにつかまって息を吸いこむだよ」と命令した。スカーレットは、言われるままに、寝 台の柱につかまって身がまえた。マミーは強くぎりぎりまで締めつけたが、鯨骨でつくった腰部の細 いところがだんだん締まってくると、マミーの目には誇らしげなやさしい表情がうかんできた。「お 嬢さまみたいな、こんないい腰をもっている人は、まずねえだね」と彼女は、ほれぼれと言った。「 スエレンお嬢さま(註=スカーレットのすぐ下の妹)だって、20インチより細く締めると、いつも 気を失うだからね」「ふう!」とあえぎ、スカーレットは苦しそうに言った。「あたしなんか、気が
遠くなったことなんて一度もないわ」

マーガレット・ミッチェル 作『風と共に去りぬ』 新潮社 第一部 第五章より


Gone with the Wind

『ナナ』

 



エミール・ゾラの小説「ナナ」(1882)は、「近代化の波、戦争の陰などの世相不安を通して、ある夫 婦とその娘の転落をからめて描かれている退廃的な物語」である。               
この油絵(1877)は小説「ナナ」から取材したエドワール・マネの作品である。

「ナナ」は高級娼婦、コルセットは男性に抑え難い性的衝動の嵐を引き起こす小道具であると同時に 当時「貞淑さの確固たる証」であると見なされていた極めて矛盾に満ちた下着である。モデルはオゼ ール嬢

『鏡の前の装い』


ルージュロン、ジュール・ジェーム、1877年